2020年5月31日日曜日

僕は忘れたくない

 僕は忘れたくない

 「いま考えていること、感じている気分を忘れてはいけない」
いち早く感染爆発を経験したイタリアの作家、パオロ・ジョルダーノさんは新著『コロナの時代の僕ら」(飯田亮介訳、早川書房刊)で繰り返しそういっている。素粒子研究で理論物理学の博士号も持つ作家による2月29日から3月20日までの生々しい思索は「世界初のコロナ文学」として評判を呼んでいる。
 「僕はこの空白の時間を使って文章を書くことにした。(略)この感染病が僕たちに対し、僕ら人類の何を明らかにしつつあるのか、それを絶対に見逃したくないのだ」
 つい先日まであたりまえだった日常はもろくも崩れ去った。劇場や音楽ホールは閉ざされ、不要不急の芸術は危機にさらされている。文学はいま、何ができるのか。国民一丸となって、といったときに、こぼれ落ちるもの、見逃してしまうもの。そういった小さい声をひろうのは作家の役割でもある。
 感染症による災禍は、多くの文学作品のテーマとなった。ボッカチオの『デカメロン』やカミュの『ペスト』では黒死病が描かれ、トーマス・マンの『魔の山」や堀辰雄の『風立ちぬ』は結核の療養施設を取り上げた。周囲から隔絶された暮らしからわいてくる「直感」をさらすことが大事だ、とジョルダーノさんはいう。(2020年4月13日毎日新聞夕刊)
 戦争が終わると、誰もが急いで忘れようとするが、病気にも似たようなことが起きる。苦しみは、普段であればぼやけて見えない真実に触れさせ、物事の優先順位を見直させる。なのに、回復がなったとたん、そうした天啓はたちまち煙と化してしまう。
 「僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそあることを」
 コロナ禍が去った後、私たちは何を捨て、何を残すのか。パンデミックという国境を越えた脅威によって、国家の復権と各国の権力闘争が展開されるのか。それとも国際協調が進むのか。いま、本当に大切だと思えたことを忘れないでいたい。(4月24日記)
 (2020年6月1日)

2019年11月30日土曜日

壁の向こう

  大きな赤い壁がありました。いつ、だれがつくったのか。知りたがりの小さなネズミは思いました。

 「ふしぎだな、きになるな。このかべのむこうになにがあるのだろう?」

 こわがりのネコは「わたしたちをまもってくれてるのよ」といい、「むずかしいことかんがえるのはやめろよ」とキツネはにっと笑う。でも、ある日、飛んできた空色の鳥といっしょに壁をとびこえたネズミは……。

 絵本『かべのむこうになにがある?』(ブリッタ・テッケントラップ作、風木一人訳。BL出版)のあらすじだ。今年の全国読書感想文コンクールの課題図書で、ひらがなだけのこの絵本の読書の対象は小学5、6年生。色彩豊かな絵本の世界は深く、スマホ世代の子どもたちだけでなく、大人たちの感想も聞きたくなる。

 ふと、高専の4年生のころ、授業中に熱く語った教師の言葉が浮かんできた。「金魚鉢の金魚のように、鉢の中をできるだけ大きく動き回るんだね」。就職が気になり始めた学生たちに、与えられた環境(居場所)で精一杯、自己表現してほしいと諭した。

 だが、水俣病など公害問題で企業の社会的責任が問われだしたころで、私はちょっと気になった。「鉢の外の世界はどうなの?」

 絵本の中では、ネズミの勇気に動かされ、他の動物たちも壁を越えていく。「かべのむこうになんてなにもない。やみだ。はてしないやみだ」という老いたライオンを残して……。くたびれ、長いこと、ほえることもないライオンにも、若いころに壁を越えようと何度か挑戦して、諦めた過去があるのかもしれない。だが、最後はそのライオンもついていき、みんなといっしょになる。

 いつしか私も老い、好奇心や勇気を失ってはいないか。

「幸福な監視国家」という中国の壁に挑み、「自由」を求める香港の若者たちの姿がまぶしい。壁を意識せず、深く考えなければハッピーなままでいられるかもしれない。壁をどう

越えるのか。「こわいとおもうから こわいものがみえるんだ」。「ほんとうのものを みる ゆうきが あれば かべはきえる。ぜんぶ きえたあとには きっと すばらしいせかいが あるはずだよ」。絵本の鳥の言葉が胸に響く。


2019年5月31日金曜日

歴史の「縦糸」

 歴史の「縦糸」

 新元号のもとで時代が流れていけば、平成、昭和の記憶は日々遠のいていく。それだけに平成のうちにどうしても、と有明高専時代の恩師、棚町知彌先生の評伝を書きあげたかった。
 なんとか間に合って4月、『読書と教育-戦中派ライブラリア
ン・棚町知彌の軌跡』という題で刊行できた。
 棚町先生は、私より2回り上の丑年。作家の三島由紀夫とおなじ1925(大正14)年生まれ。14馬遼太郎(作家)より2つ下、吉本隆明(思想家)よりーつ下にあたる。有明高専には開校時から13年間勤められ、2010年7月に逝去された。享年84。
 この欄でも何度が紹介しているが、在校時には読書や高専教育の可能性を熱く論じ、多くの卒業生に強烈な印象を残している。かつてこの学園でもささやかな"紛争"があり、師事していた先生と私はいったん決別した。
 卒業から20年後、関西の女子大学の近松研究所初代所長になられた先生に新聞記者として再会。それから有明高専で生じた師弟の細い糸が再びつながった。
 その晩年に聞いたエピソードの数々にはすっかり驚かされた。皇国少年から占領軍の検閲官、数学から国文学、北海道大学から九州大学、工業教育改革から近松門左衛門の研究……。神道・戦争・敗戦・占領軍・検閲と、まるで昭和史の急所に触れて生きるような揺れ幅の大きい人生だった。
 皇国少年として「”洗脳”された」側から戦後、GHQ検閲に日本人スタッフとして「軍国主義下にあった日本人を”洗脳”する側」に転身。GHQによる"洗脳"が成果をあげ、戦前の天皇と臣民の関係は米国と日本の関係にすり替わっていく。その後の政治動向に見え隠れする「第3の”洗脳”」を先生は憂いていた。
 日本の近代史が重なっている先生の人生行路をどう受け止めるのか。それはそのまま、私がどう生きたか、も問われてくる。自分の頭で考えろ、と熱く語った先生の芯にあったのはなにか。その時代精神を受け継ぎ、歴史をつなぐ「縦糸」をどう紡いでいけるのか。恩師の人生を〈旅〉しながら、そのようなことを考え続けた。(2019年6月1日)

2018年11月30日金曜日

同窓という宝

 同窓という宝

 「高専に進学した時点で、君は"変人"だったんだよ」
 10月、古稀を記念した中学校の同窓会(旧荒尾2中、現・海陽中)で幼なじみの友人からそういわれた。
 中学3年の秋、地元の三井三川鉱で死者458人、CO中毒患者830人の犠牲者が出た戦後最大の事故があり、その現場の三川坑口を見学していたときだった。高校ー大学という普通の進路ではなく、新設高専を選択したことが冒険に見えたようだ。
 「でもね、先が見えないからこそ面白いじゃないか」
 15歳のときのそんな気概が懐かしく思い出された。
 高専草創期の5年間、学校生活は新鮮でけっこう楽しかった。私は結局、技術者の道から外れてしまったが、何の後悔もない。有明高専同窓会は50周年記念式典を開き、卒業生は約8000人という。みんなはどんな人生を歩んでいるのだろうか。
 ところで、国公私立の高専OB、OG、在学生、高専関係者の親睦団体「ヒューマンネットワーク高専(略称HNK)」をご存知だろうか。高専の発展に寄与しようという緩やかな集まりで、2010年に有明高専でも交流会が開かれた。
 今年度の第23回交流会は長野高専で開かれ、益一哉・東京工業大学学長(神戸市立高専出身)や竹内芳明・総務省サイバーセキュリティ統括官(高松高専出身)が講演され、深夜2時まで熱く語り合うグループもあった。
 全国的にみれば高専同窓生は約40万人。早期の専門教育を受け、新たな道を切り拓いた卒業生たちには、高専という共通のキャンパスで学んだという同窓意識があるようだ。次回の交流会は仙台高専で開かれる予定で、その交流の輪は着実に広がっている。
 ふと、三池炭鉱閉山20年をたどる新聞記事で見た級友のY君のことが浮かんだ。炭鉱事故で父を失い、妹2人を学校に通わせるために高専在学中、勉学とアルバイトに追われ、
 「父が死んでから数年間の記憶が抜け落ちて……。同級生の顔も名前も思いだせない」
 という。日本航空を退職後、脳梗塞で苦しんでいるとも聞いた。卒業以来、再会することはなかったが、元気でいてほしいと切に思う。同時代を生き、ともに青春を過ごしたという記憶は何よりの宝だ。
(2018年12月1日)

2018年5月31日木曜日

AIと読解力

 AIと読解力


 「学校で1から100までよく教えていると思うよ」
 教育ドキュメンタリー番組をつくっている知人のディレクターがしみじみと語り、こう問いかけてきた。
 「でもね、0から1についてはどうだろうか?」
 どうやら基礎的な学びの力、いわゆる読解力の低下が気になっているらしい。
 「そだねー」と私にもピーンときた。企業経営者から「若い社員は取引相手の二iズを理解するのに時間がかかる。書いてくる報告書も要領を得ない」といった悩みをよく聞くからだ。
 社員の基本的な言葉の使い方に頭を悩ます会社も少なくない。
 いま話題になっている本、新井紀子著『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)がおもしろい。著者は国立情報学研究所教授で数学者、東大合格を目指すAI(人工知能)「東ロボくん」の育ての親として知られる。AIの可能性と限界、人間との関係の未来を実にわかりやすく語っている。
 東ロボくんは東大には入れなかった。だが、MARCHクラス(明治、青山学院など)には楽勝で合格した。それが意味するのはなにか。AIが苦手な分野は読解力で、日本の教育が育てているのは、今もってAIに代替される能力というのだ。
 これからのAI社会を乗りきるために新井教授はこう提言している。
 「重要なのは柔軟になることです。人間らしく、生き物らしく柔軟になる。そして、AIが得意な暗記や計算に逃げずに、意味を考えることです」
 母校の有明高専は2年前、創造工学科一学科に改組された。新入生全員が入学後から1年半、技術全般に関する基礎的素養を学び、工学への動機づけをしているという。すぐにその効果が表れるものではないが、その狙いは大賛成だ。そして半世紀前、母校で受けた教育を懐かしく思い出した。
「あの国語の授業で半ば強制的に本を読まされた棚町知弥(恩師の名)式『読書教育』もまた、読解力をつけるための先進的な試みだったのだ」
(2018年6月1日)

2017年11月30日木曜日

現場の力.

 現場の力.

 「あいつ、食堂のおばさんに惚れっとたんじゃなかか」
 総選挙が公示された10月10日の夜、飛騨・下呂温泉で開いたミニ同窓会。電気工学科2期生が10人集まり、昔話の花を咲かせた。卒業以来初めて見る顔もあったが、気分は一気に青春のころにタイムスリップした。
 入学したのは1964年。東京5輪が開かれ、新幹線が走った年だ。出身地は北九州から鹿児島まで。中学浪人組、高校からの再受験組、炭鉱事故で父を失った友……と同期生は実に多彩だった。
 それから半世紀。高度経済成長の波に乗り、パナソニック、東芝、NEC、IBM、川崎重工:などの大手企業で級友たちは勤めあげた。
 「長時間の残業は苦にしなかった」
 「海外派遣、リストラにあったけど、健康第一や」
 それぞれの人生経路を披露したところで、最近の企業不正の問題に嘆きの声が相次いだ。
 東芝、三菱自動車、日産、スバル、神戸製鋼と長期にわたる大規模な不正行為。日本の製造業は「本社やトップがダメでも、現場の強さが支える」といわれたものだが、いまや通用しない。
 企業間の競争が厳しいなかで、経営陣は抜本的な手を打てず、実現不可能な目標を掲げる。省力化、合理化は途切れもなく進み、技術者は自立心を失いがちだ。納期に追われ、不正を見過ごすために現場で創意工夫がなされているのだろうか。
 まるで日本社会の底がぬけかかっているようだが、日本型経営の問題にとどまらず、この病いの根は深い。
 「おい、いまの高専生に言いたいことがある?」
 酔いを醒ます野暮な質問を投げかけると、
 「やっぱし、世界の動きをよく知ることやな」
 と返ってきた。F君はしみじみといった。
 「高専でいろんな本を読む習慣をつけてもらった。あれは本当に
よかったよ」
 私もふと、工業教育について語った恩師の言葉を思い出した。
「Don’t teach your students engineering   trach be engineers!U」
 (技術を教えるのでなく、技術者であることを教えるべきだ)
 (2017年12月1日)

2017年5月31日水曜日

足元を掘るー三池炭鉱閉山20年

 足元を掘るー三池炭鉱閉山20年

 三池炭鉱が閉山して今年3月で20年の歳月が流れた。これを機に熊本大学の学生たちが報告書「三池炭鉱地域の記憶、世界の遺産2016」をまとめた。「炭鉱の町の歴史を記憶しつつ、町の在り方を考えるきっかけにしてほしい」とインタビュー調査したもので、その中に有明高専の学生418人を対象にしたアンケー
ト調査もあった。
 「学校で三池炭鉱について学んだ経験がない学生は88%。三池炭鉱について知っていることの記入を求めたところ、90%が無回答」
 それって、ほんと。新聞記事に書かれたその数字が信じられなかった。三池炭鉱跡が世界文化遺産に登録されたのに、後輩たちにとって炭鉱は無縁の存在になろうとしているのだろうか。
 考えてみれば、炭鉱は学生たちが生まれる以前のこと。遠い過去になろうとしている炭鉱にこだわる私は、それだけ老いたということなのかもしれない。
 有明高専が開校した1963(昭和認)年の11月8日、三池炭鉱三川坑で炭塵爆発が起きた。死者458人、CO中毒の被害者839人。戦後最大の炭鉱事故だった。その翌春入学した私たち2期生のなかには、この惨事で家族を失った級友がいた。
 それから半世紀がとっくに過ぎた。今春、荒尾に帰省し、孫たちを連れて万田坑公園を訪ねると、瀬戸洋先生がいた。私が高専3年生のとき、独語の新任教師として着任した若々しい先生は定年退職後、炭鉱のボランティアガイドとして汗を流していた。
 「先生、あのね」と一瞬、アンケートのことを話そうかと思ったが、やめた。そのようなことは先刻承知のことだろうし、がっくりした顔を見たくなかったからだ。
 日本一の炭鉱だった三池炭鉱跡には、現在に至る日本社会の来た道が埋もれている。「三池を掘る」ということは「日本を掘る」こと。過去を見つめ、対話を重ねてこそ未来もまた見えてくる。有明高専の足元に未来を見つめる「坑道」がある。(2017年6月1日)


2016年11月30日水曜日

教養と工学ー東工大の挑戦から

 教養と工学ー東工大の挑戦から

 「長年の夢に挑戦しています」
 東京工業大学教授、上田紀行さんから今春、熱い思いを込めたメールが届いた。この2年間、心血を注いできた教養改革が実を結び、新組織「リベラルアーツ研究教育院」が正式スタートし、その研究教育院長に
なったという。「人文系の教育は縮小」との文科省方針が示されているなかで、東工大はあえて「リベラルアーツ」(教養)教育を大幅に拡充した新カリキュラムを導入したのだ。
 上田さんに初めて出会ったのは30年近く前。当時、東京大学で文化人類学を学んだ後、世界や日本各地を放浪しながら「生きる意味」を問い続けていた。取材のテーマは「若者にとっての宗教とは何なのか」だった。別れ際、「あのー、帰りの電車賃がないんです」と苦笑いし、そのときの人懐こい顔が鮮やかに浮かんでくる。
 そしていま、「人間としての根っこを太くする」教育のために旗を振っている。学生たちの「大きな志」を育てようと新入生全員必修の「立志プロジェクト」を開講し、「教養教育」は学部だけではなく、大学院の博士課程にまで拡張した。
 自分の人生や専門領域を通して世界にいかに貢献していくのか。自発性と創造性、コミュニケーションカを引き出すプロジェクト型講義を行い、学部3年で全員が「教養卒論」を書く。学生たちが問題意識を探って有機的に講義を選択し、いわば「自分の物語を創る」履修を目指している。
 「科学技術の善と悪とは」「格差問題をいかに解決するのか」……そんな多様な話題がキャンパスのあちこちで論じられている光景はとても魅力的に思える。上田さんはいう。
 「学生たちが刺激しあい、全学の『教養劇場化』を目論んでいるんですよ」
 工学の研究者といえば、専門領域に閉じこもってしまいがちだ。科学技術を通して日本社会を、そしてグローバル社会をより良き方向へと導くには、幅広い「教養」の視点は欠かせない。
 有明高専もまた、新入生全員を「創造工学科」で受け入れ、その後の専門領域を探究していくための新カリキュラムを導入し、新たな挑戦を始めている。若い人たちが自らの関心を掘り下げ、社会的な課題につなげながら学び続けてほしい。(2016年12月1日)

2016年5月31日火曜日

18歳のとき

 18歳のとき

 私が18歳、高専4年の秋のことだった。!967年10月8日。東京・羽田空港近くの弁天橋で、ベトナム戦争反対を叫び、抗議行動をした京都大学-回生、山崎博昭さん(当時18歳)が亡くなった。
 その死に激しいショックを受けた。同じ年の彼は、あの場にいた。では、私はいったい何をしているのだろうか、と。
 それまでのんびりとマイペースで高専の生活を楽しんでいた。3年の夏休みには、中学時代の旧友たちが大学受験に追われる中、自転車で日本一周の旅に出た。約2か月かかり、学校に戻ったのは9月の中旬。ふらふらと勝手に学校を休み、ペダルを漕いでいたことで1週間の停学処分を受けた。高専で学び続ける先がまったく見えず、ずっとさまよっていた。
 そんなときに「君らと同じ年の大学生はこんなことを考えているぞ」と、前回紹介した国語教師の棚町知弥さんが一枚の紙を学生たちに配った。週刊朝日に掲載された「山崎博昭君の日記」から抜き書き、ガリ版刷りしたものだ。
 現場に残されていた彼のカバンの中にあった10冊の本を通して、懸命に世界を理解しようとするその読書の量と質に圧倒された。
 その後、学内でも表現・集会の自由などを求めてちょっとした.”紛争”が起きたのだが、学生主事補でもあった棚町さんは後に苦笑しながら語っていた。
 「山の中の学校にいる君たちの目を覚まさせたかった。結局、マッチ・ポンプになってしまったな」
 あれからまもなく50年。1昨年、反戦を叫び、天折した彼の追悼モニュメントを建立しようという「山崎博昭プロジェクト」が立ち上がり、私はその世話人をしている。私の中には、18歳のときの自分がいまもいる。そして、忘れられない言葉がある。
 「年をとるそれは青春を
  歳月のなかで組織することだ」
     (ポール・エリュアール/大岡信訳)
 この夏の国政選挙から選挙権が18歳に引き下げられる。高専における「主権者教育」はどのようになされるのだろうか。 (2016年6月1日)

2015年11月30日月曜日

いま、技術者倫理の教育は

 いま、技術者倫理の教育は

「彼女は女性であった。彼女は被圧迫国民のひとりであった」

 ラジウムを発見した物理学者、マリー・キュリー夫人の娘、エーブ・キュリーによる「キュリー夫人伝」の冒頭の一節だ。高専に入学して最初の国語の時間は、その「キュリー夫人伝」の朗読から始まった。
ちょっと部厚いその伝記は傷んではいるものの、いまも私の書棚にある。
 読んだのは東京五輪の年、敗戦から19年目だから教師たちには戦争の記憶がまだ鮮明だった。科学者としての人生、科学と平和の問題について初めて考えさせられ、忘れられない本だ。
 国語の担当は棚町知彌さん(故人)。細い体に怒り肩。鋭い眼光。教室の廊下を歩くときは、本を小脇にはさみ、ひょいひょいといくぶん飛ぶように急ぎ足だったから、私は「カマキリ」とあだ名をつけていた。読書を通して視野を広げることを熱く語っていた。
 約1カ月近くかけて「キュリー夫人伝」を読了。元東大学長、矢内原忠雄の「余の尊敬する人物」(岩波新書)を取り上げ、「教育とは何か」「学校の理想」について語りあい、夏目漱石の「三四郎」、杉田玄白の「蘭学事始」、幸田露伴の「五重塔」と続いた。試験は読書感想文で、いわば国語を通しての技術者教育だった。
 高専3年のころ、伊藤整の「氾濫」も勧められた。49歳の企業研究者を主人公にした小説だ。「コツコツと地道に研究を続ければ、突然、大きく花を咲かせることがある」と棚町さんは強調していたが、社会の
裏側で渦巻く人間のすさまじい欲望に圧倒された。
 いま、フォルクスワーゲンからマンション建設までデータ改ざんをめぐる問題が噴出している。グローバル化する企業社会のなかで、一人の人間としての判断力、倫理観はどのように保たれているのか。企業内の研究者、技術者の職業倫理が改めて問われている。
 「高専教育の有利さを生かし、読書を通して社会に広く目を向ける大切さを伝えたかった。だけど、実際、あれでよかったのだろうか」
 高専を卒業して約20年後、再会した棚町さんは"棚町式国語教育"の功罪を振り返っていた。技術者倫理をめぐる教育は高専でいま、どのような形で行われているのだろうか。(2015年12月1日)

2015年5月31日日曜日

理想のゆくえ

 理想のゆくえ

 「私たちといっしょに学校を創ってみないかね」

 学校を創る。それは呪文のような言葉だった。それまでに一度も出会ったことのない、静かな笑みをたたえた初老の「教授」にそういわれて、私は魔法にかかったようについ言ってしまった。
 「はい、高専に進学します」
 当時、有明高専は開校したばかりで、荒尾の占い木造校舎に仮住まいしていた。僻地の山村にある「山びこ学校」のような薄暗い教室で面接を受けた。私は特に理系に関心があったわけでもない。ただ「鉄腕アトム」にでてくる「お茶の水博士」のような雰囲気を漂わせた「教授」の人柄に魅せられてしまったのだ。
 それまでは、地元の県立高校に進学するつもりでいたし、両親もそうするものだと思い込んでいた。だが、何かの一瞬、進路を変えてしまうのは、夏目漱石の「坊っちゃん」といっしょだ。「坊っちゃん」も、
たまたま物理学校の前を通りがかったのを何かの縁に入学手続きしてしまった。「今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から走った失策だつた」と漱石は書いているが、私は失策とは言わない。
 「高校、大学を合わせた7年分を5年で効率的に学び、かつての旧制高校のような自由な教育の場にしていきたい」
 そんな「教授」の甲木季資先生の熱い思いに導かれ、大学でもない、高校でもない、新設の高専の可能性を自ら選んだのだ。
 そして1964年4月、有明高専電気工学科2期生となった。小高い台地を切り拓き、新校舎が完成、長い砂利道の萩尾坂を意気揚々と登った。坂の上には「理想」があり、「希望」がみなぎつていた。いわば萩尾坂の上の雲を見つめた1期生ともいえる。
 東京五輪が開かれ、新幹線が開通した年であり、前年秋の三池炭塵爆発で大牟田、荒尾の街が悲しみに明け暮れたときでもあった。
 そして高度経済成長、バブル崩壊、産業空洞化と山あり谷ありで半世紀が過ぎた。いま、母校のことを聞かれて思い浮かぶのは、なぜか萩尾坂から見た有明海のかなたの、多良岳の稜線に沈む夕日の美しさだ。あのときの「理想」はどうなったのだろうか。(2015年6月1日)

1997年5月31日土曜日

汗と塩

 汗と塩

「三井三池炭鉱の閉山の光景をこの目に焼き付けておぎたい」

 そんな気持ちにかられて三月末、帰郷した。

 かつて「総資本対総労働の闘い」を担っていた三池労組は組合員十五人になっていた。最後の入坑日となった二十九日は、一九六〇年の「三池争議」で暴力団に刺殺された炭鉱マン、久保清さんの命日で、旧四山坑(熊本県荒尾市)近くにある慰霊碑で開かれた労組主催の追悼集会に行き、懐かしい組合歌「炭掘る仲間」を聞いていると、なぜかアフリカの民話が浮かんできた。

 アフリカの奥地に住むある部族は、塩がなくていつも困っていた。塩を得るには、周りの敵対する部族の間を抜けて海岸まで行かなくてはならない。そこであらかじめ何人かが殺されることを見越したうえで、多くの若者が出ていく。
 敵対する部族との闘いを経て、海にたどりついた何人かが、海水を身体から塩分が噴き出すくらいに飲んで、集落に走って戻る。仲間が倒れても、そうやって塩を持ち帰る…。

 生きるということは、そんな塩を運ぶような無償の行為で、汗の中に残された塩こそが人間集団の生存に欠かぜないのだ、とその民話はいっている。いいかえれば、時代から追われゆく炭鉱マンの汗と塩の結晶こそが、私たちの歴史にとっても欠かぜなかったものかもしれない。
 早咲きの桜とともに百二十四年の炭鉱の歴史を終えた郷里ではいま、緑が萌え、やがて夏がくる。炭鉱を離れた人たちは人生の再出発に向けて新たな汗を流している。
 子供のころから見慣れたあの元気いっぱいの炭鉱マンたちは、幻の彼方に走り去ってしまった。
 (1997年6月1日)

1996年11月30日土曜日

ナシの涙

 ナシの涙

「今年の味はどうね?」
 今年の秋も、荒尾市の実家から「荒尾ナシ」が届き、母から電話があった。甘くて、水気も多く、歯ざわ
りのいいジャンボナシで、ふるさと自慢をしたくなるほどうまい。その一切れを口に含むと、かって三井三池炭鉱の黒ダイヤ景気にわき、いまはすっかり寂しくなった故郷の光景が目前に広がってくる。北海道・夕張炭鉱の夕張メロンと同じように、炭鉱離職者対策の一端を担った特産品のナシは少しずつ知られるようになった。
 春、四月、荒尾市の山手に広がるナシ畑には、白いじゅうたんを敷き詰めたように花を咲かせる。ふと、デ・シーカの名作映画「ひまわり」のーシーンが浮かんできた。出征した夫を捜し、ソフィア・ローレンが訪ねた激戦地一面に咲くひまわり。戦争の悲しみ、心に渦巻く情念を見事に表現していた。
 ここ荒尾もまた労働争議、炭鉱爆発など時代の荒波に襲われ、ナシ畑の下には無数の炭鉱マンの思い出が埋もれている。さしずめナシの白い花は、その思いがあふれでた涙のようにも見えてくる。
 いつも仰ぎ見ながら育った三池炭鉱のシンボルで、有明海底につながる「東洋一の竪坑やぐら」(旧四山鉱)が9月、爆破、解体された。三池炭鉱そのものも来春には閉山となり、124年の歴史を終える。今年のナシはほんのちょっとほろ苦かった。(1996年12月1日)