1996年5月31日金曜日

遠い声

「近松力ラオケ」はとっくに千回を越えたよー。園田学園女子大学近松研究所(兵庫県尼崎市)所長、棚町知弥さんは電話口で元気そうに語っていた。各地の市民講座で、近松門左衛門の戯曲の名場面を歌うように解説する自称「近松力ラオケ」はいま、月平均二十回を数えるそうだ。

「小さな私学でも日本一の研究所ができる。近松で日本一であれば、世界一の近松研究所になる」

 そんな夢を抱いて棚町さんが国立国文学研究資料館の研究情報部長を定年退官後、近松研究所をスタートさせて七年。聴講生による組織「近松応援団」も結成され、「近松連」の旗まで作って国立文楽劇場などへそろって出かけている。
 有明高専の草創期、棚町さんは国語の時間でいつも小説を朗々と読み、私はその名調子に聞きほれた。試験は読書感想文。三年間の国語の授業の総仕上げは、マルタン・デュ・ガールの大河小説「チボー家の々」を読みとおすこと。いま思えば信じられないような国語の授業だった。
 一時、学生主事と学生会長という立場で対立し、棚町さんから「あのとき心労のあまり西鉄電車の網棚に重要な研究資料を置き忘れ、大変な目にあった」と後に聞かされ、悪いことをした気にかられた。
 あれから30年近くなる。不思議な縁で、毎日文化センターにも棚町さんに来てもらっている、あの名調子が同じビル内の文化センター教室(二階)から私の席(十五階)まで伝わってくるようにふと思えるときもある。耳では聞こえない遠い声で「ちゃんとした文章を書けるようになったか」と言っているかのように。先生はいつまでたっても先生だ。
 電話の向こうで「今夏、ひさしぶりに高専の図書館に行ってみるよ」と懐かしそうに語る棚町さん。授業後いつも、一般棟三階にあった旧図書室の窓口にいた棚町さんの姿が甦り、一瞬、私も青春の日々に吸いよせられた。(1996年6月1日)

1995年11月30日木曜日

三枚の葉書

 〇三枚の葉書ー

「やっぱり高専をやめることにしました」
 S君から突然、三枚の葉書が舞い込んできたのは、一九七〇年の春、三月だった。もうはるか昔
のことだが、全国の大学でわき上がった学生運動の息吹は萩尾坂にも押し寄せ、有明高専でも「表
現の自由」「不当処分撤回」などを求めて、校門前で学生によるハンガーストライキなどが繰り広げ
られた。その輪の中にS君はいた。
 私は、その前年の春、電気工学科を卒業して早稲田大学政経学部に進学。東京・目白の田中角栄邸近
くにあった熊本県出身者のための学生寮「有斐学舎」で、自分をつかみかねて、悶々とした日々を過
こしていた。
 S君は、高専の学生会でいっしょに活動した一期下の後輩。その三枚連続で同時に配達されてきた葉書を読み、胸を突かれる思いがした。卒業式を数日後に控えての自主的な退学。彼にしてみれば改めて手紙を書くとなるとジメジメしてしまう。単に高専退学を通知するつもりでも、葉書一枚にはとても書ききれない。結局、思いがつのり、葉書三枚にわたってその心情を吐露していた。
 その後、S君は公務員試験を受けて建設省に入り、筑波の土木研究所で研究生活に没頭。数年前、東北大学で工学博士号を取得し、いまは、建設省から離れ、コンサルタント業のほか東海大学講師も務めている。
 「あんな昔のこと、もう忘れてくださいよ」
 このコラムを書くために電話をかけると、S君は戸惑っていた。「ぼくにとっては、忘れられない
ことだけど」。だが、やはりここに彼の事を明記しておこう。境友昭君、機械工学科三期生として
入学。卒業を「拒否」したために、同窓会名簿にその名はない。(1995年12月1日)