2016年5月31日火曜日

18歳のとき

 18歳のとき

 私が18歳、高専4年の秋のことだった。!967年10月8日。東京・羽田空港近くの弁天橋で、ベトナム戦争反対を叫び、抗議行動をした京都大学-回生、山崎博昭さん(当時18歳)が亡くなった。
 その死に激しいショックを受けた。同じ年の彼は、あの場にいた。では、私はいったい何をしているのだろうか、と。
 それまでのんびりとマイペースで高専の生活を楽しんでいた。3年の夏休みには、中学時代の旧友たちが大学受験に追われる中、自転車で日本一周の旅に出た。約2か月かかり、学校に戻ったのは9月の中旬。ふらふらと勝手に学校を休み、ペダルを漕いでいたことで1週間の停学処分を受けた。高専で学び続ける先がまったく見えず、ずっとさまよっていた。
 そんなときに「君らと同じ年の大学生はこんなことを考えているぞ」と、前回紹介した国語教師の棚町知弥さんが一枚の紙を学生たちに配った。週刊朝日に掲載された「山崎博昭君の日記」から抜き書き、ガリ版刷りしたものだ。
 現場に残されていた彼のカバンの中にあった10冊の本を通して、懸命に世界を理解しようとするその読書の量と質に圧倒された。
 その後、学内でも表現・集会の自由などを求めてちょっとした.”紛争”が起きたのだが、学生主事補でもあった棚町さんは後に苦笑しながら語っていた。
 「山の中の学校にいる君たちの目を覚まさせたかった。結局、マッチ・ポンプになってしまったな」
 あれからまもなく50年。1昨年、反戦を叫び、天折した彼の追悼モニュメントを建立しようという「山崎博昭プロジェクト」が立ち上がり、私はその世話人をしている。私の中には、18歳のときの自分がいまもいる。そして、忘れられない言葉がある。
 「年をとるそれは青春を
  歳月のなかで組織することだ」
     (ポール・エリュアール/大岡信訳)
 この夏の国政選挙から選挙権が18歳に引き下げられる。高専における「主権者教育」はどのようになされるのだろうか。 (2016年6月1日)