理想のゆくえ
「私たちといっしょに学校を創ってみないかね」
学校を創る。それは呪文のような言葉だった。それまでに一度も出会ったことのない、静かな笑みをたたえた初老の「教授」にそういわれて、私は魔法にかかったようについ言ってしまった。
「はい、高専に進学します」
当時、有明高専は開校したばかりで、荒尾の占い木造校舎に仮住まいしていた。僻地の山村にある「山びこ学校」のような薄暗い教室で面接を受けた。私は特に理系に関心があったわけでもない。ただ「鉄腕アトム」にでてくる「お茶の水博士」のような雰囲気を漂わせた「教授」の人柄に魅せられてしまったのだ。
それまでは、地元の県立高校に進学するつもりでいたし、両親もそうするものだと思い込んでいた。だが、何かの一瞬、進路を変えてしまうのは、夏目漱石の「坊っちゃん」といっしょだ。「坊っちゃん」も、
たまたま物理学校の前を通りがかったのを何かの縁に入学手続きしてしまった。「今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から走った失策だつた」と漱石は書いているが、私は失策とは言わない。
「高校、大学を合わせた7年分を5年で効率的に学び、かつての旧制高校のような自由な教育の場にしていきたい」
そんな「教授」の甲木季資先生の熱い思いに導かれ、大学でもない、高校でもない、新設の高専の可能性を自ら選んだのだ。
そして1964年4月、有明高専電気工学科2期生となった。小高い台地を切り拓き、新校舎が完成、長い砂利道の萩尾坂を意気揚々と登った。坂の上には「理想」があり、「希望」がみなぎつていた。いわば萩尾坂の上の雲を見つめた1期生ともいえる。
東京五輪が開かれ、新幹線が開通した年であり、前年秋の三池炭塵爆発で大牟田、荒尾の街が悲しみに明け暮れたときでもあった。
そして高度経済成長、バブル崩壊、産業空洞化と山あり谷ありで半世紀が過ぎた。いま、母校のことを聞かれて思い浮かぶのは、なぜか萩尾坂から見た有明海のかなたの、多良岳の稜線に沈む夕日の美しさだ。あのときの「理想」はどうなったのだろうか。(2015年6月1日)